目次
開く1. はじめに
図1に示すように、稲作の伝来から近世に至るまで、我が国の人口は食料供給基盤である農地面積とともにゆるやかに増加してきた。江戸時代の初期になると、農地面積は大幅に増加し、これに支えられて人口が増加し始める。明治以降になると、農地面積は更なる急増を迎え、人口が爆発的に増加するが、農地面積は昭和30年代をピークに急減に転じ、現在では人口増加も頭打ちとなって史上初となる人口減少時代を迎えている。「土の章」では、有史以前から私たちの命を支えてきた日本の農地の歴史を振り返り、我が国の農地の将来を展望する。
2. 稲作の伝来とクニの誕生
我が国では、紀元前10世紀頃に九州北部の玄界灘沿岸に水稲が伝来したとされており、稲作がはじまると、まずは集落の共同作業で河川下流部の後背湿地や谷地の湿地(図2)に水田が作られ、稲作は弥生期に青森県まで北進した(図3)。弥生後期から鉄製農工具(図4)が普及し始め、池溝建設や開田が容易になったため、静岡県の登呂遺跡に代表される水田耕作文化が生まれた(1世紀頃)。
やがて、稲作の進展により生産力が増大すると、集落間に貧富の差が生じて、支配関係で有力な集団(クニ)に統合がすすみ、次第に古代国家が形成されていった(4世紀頃)。古墳時代に生きた第10代天皇の崇神(すじん)天皇は、「農は国の大本なり。田の水が不足しているため、池、溝を開き、民業をゆとりあるものにせよ。」と述べたとされる(日本書紀)。大和平野、奈良盆地に広がる古墳(図5)は権力者の存在の証であるが、示威目的に人民を徴用して築造したのではなく、周濠(しゅうごう)をため池として利用するという目的もあり、指導者の下で民衆が協力して築造したものであったとも考えられている1)。
大化の改新(645)が始まり唐の律令制度を基にした公地公民の中央集権制度となると、条里制により土地を碁盤の目に区割りして、農地と農業水利の整備が進められた。6歳以上の男性は2段(約24a)、女性はその2/3の口分田が支給され、収穫の3%が租として徴税された(班田収受制)。なお、1段(1反)は当時の大人1人1年分の食料である1石(1000合=約150kg)を生産する面積であった(7~8世紀)。
3. 荘園制と武家社会
人口が増えて班田収受制を継続するための農地が足りなくなり、国家は開田を奨励するために三世一身法(723)、墾田永年私財法(743)を定めた。これにより開田の永久私有が認められて公地公民制が崩壊し、貴族や寺社が荘園という私有地を広げることとなった。その後800年続く荘園制度では収益権が錯綜したため、百姓が地権者から幾重にも税を徴収されることがあった。
10世紀頃からは、武士が荘園の警護や開墾地の領主として力を蓄え、支配階級として台頭し、源頼朝は土地を介した封建制度(御恩と奉公)を確立して、国ごとに守護を、荘園・公領ごとに地頭を配置して水利開発を進めた。
室町時代に入ると、守護は荘園や公領を支配して守護大名となり、在地の士豪と主従関係を結んだ。応仁の乱(1467)により戦国期が始まり、辺境の荘園は武士に横領されたが、一方で、14世紀頃から村を守るために農民が団結して「惣(そう)」と呼ばれる村落自治組織が作られ、これが井堰などの灌漑施設の建設・維持、入会(いりあい)地の管理を担うなど、日本独特の管理体系の原型となった。
当時は米の石高が経済力の基礎であり、戦国大名は流域規模の新田開発を盛んに行った。例えば、甲州の武田の釜無川や笛吹川、越後の上杉の信濃川、安芸の毛利の太田川等の整備が挙げられる。
豊臣秀吉は全国統一後、太閤検地(1594)により租税賦課や知行給付の基礎となる農地生産性の基準を統一し、一耕地一作人を原則として全国の土地を領主に直属させた。これにより奈良時代に始まった荘園制度は終焉を迎えた。
4. 江戸の技術と新田開発
徳川幕府は、幕藩体制による土地支配と強固な身分制度(兵農分離)によって社会を秩序立てることとし、米の生産量を基準として耕地に石高を割り当て、米を財政的基盤とした。農村では村請制度により名主(なぬし)(西日本では庄屋、東北では肝煎(きもいり)という)を筆頭として、五人組を単位に百姓が組織化され、村全体の相互扶助・相互監視によって年貢や賦役などを納めさせた。
江戸時代は、米の確保が政策の基本となり、技術進歩も相まって、各地で大規模な新田開発が進んだ。東日本では、内陸部である山林原野の開墾と大河川流域・低湿地の干拓が主に行われた。関東平野では、関東流と呼ばれる技術により、利根川の付替と利根川中流部湿地帯の開発が行われた(17世紀前半)。また、1722年に8代将軍吉宗により紀州から召集された井沢弥惣兵衛(いざわやそべえ)は、関東流の乗越堤や霞堤を取り払い、下流では強固な堤防・護岸で河道を固定する紀州流と呼ばれる技術により、見沼代(みぬまだい)用水(図7)などの整備を行った。運河も開発されて、関東・東北を結ぶ輸送系が整備された。
西日本では陸地に未開墾地がほとんどなかったことから、八代平野、児島湾、有明海など、干拓による海岸部の開発が盛んに行われた(図8)。
このような開発によって、豊臣時代に約150万haであった全国の耕地面積は、江戸前期の100年間で約300万haに倍増し、江戸成立時(1603)に1,227万人であった人口は享保改革時(1716-1745)に3,128万人と2.5倍に増加したのである。
その後、江戸の三大飢饉(ききん)と呼ばれる大飢饉(享保(1732)、天明(1782-1787)、天保(1833-1839))が発生した。これらのきっかけは自然災害等による凶作であるが、市場原理によって大飢饉化したという側面があった2)3)。東北地方を中心に最悪の被害をもたらした天明の飢饉では、冷害(やませ)による不作で農民が困窮する中で、都市部の豪商からの借金等により財政窮乏であった津軽藩や仙台藩は、年貢の増徴と江戸への廻米(かいまい)を実施した。これにより「飢餓移出」の状態となり、推定犠牲者が約50万人(津軽藩では人口の約1/3)とされる地獄絵図となった。天保の大飢饉は大塩平八郎の乱のきっかけとなるが、その要因も同様に、飢饉の最中に町奉行が江戸へ廻米し、豪商が利を求めて米を買い占めたことであった。
5. 近代化と耕地整理(明治時代)4)
明治政府は、明治6年から明治12年にかけて地租改正を行い、土地売買の自由化とともに、地代を年貢米から金納とし、土地私有制度と財政基盤を確立した。また、安積疏水における蒸気ポンプの導入や、大正期に入ってからの石油発動機(図9)などの近代的技術は水利用に革命をもたらすとともに、化石エネルギーの出現によって大規模建設が可能となった。
明治政府の大久保利通や松方正義らは、廃藩置県によって身分を喪失した藩士を開墾殖民によって帰農土着させるため、士族授産制度を設け、安積(あさか)原野や北海道の開拓を実施した。さらに、中央集権となって資金の集中投下が可能となり、国営安積疏水(図10)のような大規模工事が開始された。
私的土地所有権により生産意欲が高まり、地主たちが田区(でんく)改正と呼ばれる耕地の区画整理を主導した。明治20年代の静岡式と呼ばれる畦畔改良や、明治21年に加賀の高多久兵衛(たかたきゅうべえ)が実施した石川式と呼ばれる西洋式の区画整理(図11)が代表的な田区改正であり、馬などの畜力を使った営農に適した10a区画整備を標準とした。
ドイツ(プロイセン)から帰国した酒匂常明(さこうつねあき)は「土地整理論(明治26年)」により、耕地整理のメリットや、ドイツでは過半数等の同意で事業実施可能であることを記した5)。これを踏まえて、我が国伝来の田区改正とドイツの耕地整理法制の結合の産物である耕地整理法が明治32年に制定され、土地所有者の3分の2の同意により事業実施が可能になる仕組みが誕生した。さらに、明治35年に埼玉県で実施された鴻巣(こうのす)式は、石川式よりも水田の潰れ地率が低く、耕地整理のモデルとなった。上野英三郎(うえのひでさぶろう)は明治33年に東京帝国大学にて農業土木学を開講し、明治40年に耕地整理研究会を発足した。
初期の耕地整理は農業近代化による労働コスト低減が主目的だったが、日露戦争(明治37~38年)になると米の生産力不足と輸入増加が問題化したことから、土地生産性向上の要望が高まり、明治38年に耕地整理法が改正されて灌漑排水が工種に加えられた。明治42年には耕地法の全文改正によって開墾、地目変換、造成工作物の管理、暗渠排水が追加され、事業内容は大きく充実した。このような農業の近代化に支えられて、明治期約40年間で約67万haの開墾が行われ、明治5年(1872)に3,480万人だった人口は明治45年に5,000万人を超えたのである。
6. 米価高騰と米騒動(大正時代)
第一次世界大戦(大正3~7年)により工業分野が好景気になり、農村から都市へ人口が移動した。一方、農村部では養蚕が盛んになり農家収入が増加し、所得向上により食習慣は麦・稗(ひえ)から米食へ変化した。米需要の増大に加えて、政府のシベリア出兵(大正7年)を受けて商人が米を買占めたために、米価は暴騰し、米問屋の打ちこわしが起こった(米騒動)。
これを受けて、政府は大正10年に米価の需給関係の調整を定めた米穀法を制定、大正8年は開墾助成法を制定し、暗渠工事と開墾資金の利子補給を行った。大正12年より、500ha以上の府県営用排水改良事業に5割の国費補助を行うこととなり、国費を土地改良に直接かつ大規模に投入した初めての事例となった。
7. 昭和恐慌と国営事業(昭和から大戦まで)
昭和4年、世界恐慌によって生糸の国際価格が暴落し、他農産物も連鎖的に暴落する昭和恐慌(農業恐慌ともいう)が発生した。さらに昭和6年、東北・北海道の大冷害が追い打ちをかけて、小作農の経営と生活が行き詰まった。小作争議が増加するとともに、農村部の娘の身売りと欠食児童が社会問題になった。身売りされた娘は東北地方を中心に全国で4万人を超えたといわれている。
このような農村部の窮状に対して、政府は昭和7年に救農(きゅうのう)土木事業と呼ばれる積極的な公共投資を打ち出した。これは、土地改良を農村の失業対策とした画期的な事例であり、特に排水不良の耕地が多かったため暗渠排水工の補助率を3割から5割に引き上げた。昭和4年には耕地整理研究会を基として農業土木学会(現在は農業農村工学会)が創立された。
開墾助成法により小規模開墾は進んだが、全国の開発目処がない大規模開墾適地(500ha以上)約40万haをターゲットに昭和2年に大規模開墾計画を立案、昭和8年には国営第1号の干拓事業である巨椋池(おぐらいけ)干拓(図12)が着手された。同年に三本木原(さんぼんぎはら)(青森)と田沢疏水(たざわそすい)(秋田)、続いて川南原(かわみなみばる)(宮崎、昭和14年)、矢吹原(やぶきはら)(福島、昭和15年)、昭和井路(しょうわいろ)(大分、昭和16年)の国営開墾事業が着手された。
食料の増産に加えて、公衆衛生の向上によって大正時代から死亡率(特に乳児・新生児死亡率)が減少し始め、昭和10年に総人口は約7,000万人になった。
日中戦争(昭和12年~)が始まると食料不足が深刻になり、昭和15年に主要食糧等自給強化10カ年計画が策定され、昭和16年には農地開発法により開墾、用排水改良など多数にわたる各種事業要綱が統合され、面積三千町歩(事業費百万円)以上の国営事業が農地開発営団によって実施されることになった。
昭和16年、太平洋戦争が始まった。戦時下は食料の流通体制が崩壊し、国民の食生活は困窮を極め、昭和18年6月には第一次食糧増産応急対策として、外米依存を減らすため、臨時的に芋類及び雑穀の増産を図った。同年8月、第二次食糧増産応急対策として、学徒、非農家の協力により、小規模土地改良で単位生産量を増やしたが、この間、大量の資材を要する大規模開墾事業は遅延措置がとられた。
8. 戦後の食料増産対策(昭和20年代)
大戦が終わり、荒廃した国土に約600万人が海外から帰還した。このことに加えて、昭和20年の水稲の不作が重なって、大都市では配給食料の欠配が起こり飢餓状態に襲われて、冬が到来する前の昭和20年11月、日比谷公園で餓死対策国民大会が開かれた。都市部の人々は汽車で農村部へ行くか、ヤミ市で法外な値段で食料を調達した。
政府は昭和20年に緊急開拓事業を制定、食料増産対策と失業対策を緊急実施した。これは5か年で155万ha開墾、6か年で10万ha干拓、3か年で210万haの既耕地の土地改良を実施するという計画であった。
昭和21年から行われた農地改革では、4年間かけて地主から農地を収容し、農業の担い手を自作農とした。昭和24年に制定された土地改良法は、国営・都道府県営事業など基盤整備の基本規定を定めた制度であるが、民主的な土地改良区運営、申請主義による事業実施制度、土地利用者を含む事業参加資格要件など、農地改革後の社会情勢に的確に対応したものであった。
昭和26年、サンフランシスコ平和条約が締結され日本は主権を回復した。本格的な戦後復興プロジェクトとして昭和30年に世界銀行の融資とアメリカの技術指導を受けて愛知用水が着手され、昭和32年にオランダの技術指導で八郎潟干拓(図13)が開始された。
9. 農工間格差是正と基盤整備(昭和30年代)
昭和31年、政府は経済白書にて「もはや戦後ではない。」と宣言し、我が国は国民の所得向上により経済大国を目指すことを基本政策とした。高度経済成長の下で、食料需要の構造変化、農業労働力の他部門への流出、農家の兼業化、農業所得の停滞、海外からの貿易自由化の要請など、日本の農業を取り巻く条件は大きく変化した。第一次産業と他産業との間に所得格差が生じる中、昭和36年に農業基本法が制定され、土地改良は労働生産性の向上に重きが置かれた。同年は農地面積がピークの609万ha、人口は約9,000万人、一人当たりのコメ消費量はピークの118kgとなり、飢えの時代は過去のこととなった。
このため、昭和35年より土地改良事業予算の名称は食糧増産対策事業費から農業基盤整備事業費に変更された。昭和36年に経営規模拡大を目的とした開拓パイロット事業が制定された。さらに昭和38年には圃場整備事業が創設され、農業機械化による労働生産性向上を目的として、30a区画を標準とする区画整理、農業用用排水路、農道等の各種工事と換地処分により、基盤整備と農地の集団化を実施した。昭和41年に自脱型コンバインが開発され、昭和40年代には田植機が普及した。かくして昭和45~55年にかけて、土地改良、肥料、農薬、機械・設備、普及・指導などが複合的に作用し、労働生産性は1,000(円/10時間)から5,100(円/10時間)、土地生産性は24(千円/10a)から80(千円/10a)と飛躍的に伸びた(いずれも昭和55年基準の実質値)7)。
10. 過剰米と水田の汎用化(昭和40年代~)
経済成長とともに食の欧米化が進むと、昭和40年代から急速に米消費量が減少していった。昭和42年と昭和43年に米が豊作となり、米の過剰問題が発生した。当時の食糧管理制度は政府買取価格よりも売渡価格が安い逆ザヤ制度であり、政府の赤字は拡大した。そこで政府は新規開田の抑制、政府米買入限度の設定、転作面積の配分と転作奨励金の支給などを柱とした生産調整(いわゆる減反政策)を開始した8)。農業基盤整備事業もこれに対応して、昭和44年以降、農地造成は開田目的ではなく畑地造成に制度・計画を変更することになった。
昭和49年の石油危機により高度経済成長が終わり、安定成長の時代を迎えた。この間、国民の生活水準向上とともに、食生活が多様化したため、食料自給率(特に麦類、飼料作物及び豆類等の土地利用型農作物の自給率)が低下し、農地面積が減少した。さらに、昭和48年から昭和49年にかけてソ連が不作に伴い大量の穀物を買い付けたことを契機に、穀物等の国際価格が急騰し、我が国の食料自給率の低さが問題になった。
このため、昭和53年に生産調整政策として水田利用再編対策を閣議決定し、過剰米の解消と食料自給率向上を図る手段として水田の汎用化が重視され、対応事業として「土地改良総合整備事業」、「排水対策特別事業」が創設された。
昭和55年に制定された「農用地利用増進法」では、貸借による経営規模拡大の法的基礎が整備されると同時に、農地の流動化に対応した新しい基盤のあり方として水田の大区画化が技術的に検討された。昭和62年に水田利用再編対策は水田農業確立対策に引き継がれ、行政側と農業者団体の協議調整による生産調整面積の配分とともに、地域農業組織による集団的な輪作が定着していった。
11. 国際化と担い手育成(平成の時代)
平成の前年である昭和63年、日米農産物交渉により牛肉・オレンジが自由化された。自由貿易論と保護貿易論の議論が尽きない中、政府は平成4年に新しい食料・農業・農村政策の方向(新政策)により、食料安全保障は輸入と備蓄を組み合わせつつ可能な限り国内農業を維持・拡大する基本方針を示した。生産性向上の必要要件である圃場整備事業は、平成元年には大区画圃場整備事業(1ha以上)等が創設されるとともに、平成3年には農地を一定の連坦した生産団地へ集積することを要件として促進費を国費で交付する21世紀型水田モデル圃場整備促進事業が創設された。平成5年には、新政策を踏まえて認定農業者制度が創設され、担い手への農地利用集積による農地の効率的利用と経営体の育成が図られた。
平成5年、ガット・ウルグアイラウンド(UR)合意により、米の輸入(ミニマムアクセス米)を認めることになった。加えて同年の冷害により米の大不作(作況指数:74)となり、政府備蓄米の40万トンを放出しても米不足となったため、米の緊急輸入が行われた(平成の米騒動)。平成6年から、貿易自由化への対応として、UR関連対策(6年間で6兆100億円、その過半(3兆1750億円)が土地改良)が実施され、全国で水田の大区画化などの基盤整備が急ピッチで進められた。
平成19~20年、米国のバイオ燃料政策や豪州での凶作などに起因して穀物価格が急激に上昇し、社会不安により20カ国で暴動が発生し、14カ国が食糧の輸出規制を実施した(図14)。平成28年に政府は農業競争力強化プログラムにより、戦略的輸出体制を整備するとともに、農家の費用負担も同意も求めない農地中間管理機構と連携した基盤整備事業等が創設された。さらに、平成30年より、40年間行われてきた減反政策が廃止された。
12. 平成、令和、その先へ
我が国は史上初の人口減少時代を迎えており、農家人口418万人の高齢者率(65歳以上)が43.5%(H30)であるなど農家の高齢化と人口減少が特に著しいことから、今後10年、20年の間にこれまでにない速度で農業構造が変化することになる。そこで重要になるのが国家百年の計としての担い手育成と土地利用再編であり、その政策手段の中心は圃場整備事業となるであろう。
図15に示すように、圃場整備事業はこれまで営農技術の発展と共に標準となる区画の規模を拡大してきた。そして現在、測位衛星、通信技術、情報処理技術等を組み合わせたスマート農業(図16)により、営農を超省力化する試みが実証段階にあり、近い将来、スマート農業の普及と合わせた圃場整備によって次世代型の経営体が育成されることに期待がかかる。圃場整備事業を推進するための最大の課題は、今も昔も、負担割合を含めた地権者の合意形成である。技術の進展により、地理情報システムと紐付けたデータベース、無人航空機を用いた調査・測量、将来予測シミュレーションなど、地権者会議・ワークショップにおいて利用できるツールも増えているが、それらには一定のコストが必要である。このため、技術進歩を踏まえて適切なツールを活用しながらも、合意形成には地道な地元調整が依然として不可欠なものと考える。また、合意形成を円滑に進めるためには、新たな切り口で土地制度を見直すことなども考えられるだろう。
将来的な世界の人口動向、水資源の枯渇、土壌劣化、自然災害等の不確定要素や、飢餓が生産力不足のみでなく市場・流通の問題により発生してきたこと、有事に輸出規制が実施される懸念があること等を勘案すれば、我が国の食料を輸入のみに依存することはできず、今後とも国内の食料供給能力を維持することが必要である。
有史以来、我が国の命の拠り所であった農地を守り、瑞穂の国の変わらぬ風景を次世代に引き継ぐこと、それが今の時代を生きる私たちに課された役割であり、私たちを駆り立てる原動力なのではないかと考えている。
主な参考文献
- 田久保晃、水田と前方後円墳、(株)農文協プロダクション(2018)
- 秋山房雄ら、社会経済的背景との関連からみた天明の飢饉と疫病、民族衛生第43巻第1・2号(1977)
- 菊池勇夫、飢饉-飢えと食の日本史、集英社新書(2000)
- 野々村圭造、明治期の近代的土地改良制度の成立過程と現在への示唆、水土の知86(9)(2018)
- 佐藤洋平、広田純一、わが国耕地整理法の成立とドイツ耕地整理法制の影響、農土誌67(8)(1999)
- 農林省、農林行政史(1957-1976)
- 富民協会、図で見る昭和農業史、「農業と経済」創刊55周年記念別冊(1989)
- 中渡明弘、米の生産調整策の経緯と見直し問題、国立国会図書館「調査と情報」第659号(2009)
- 東京財団、ウルグアイラウンドと農業政策~過去の経験から学ぶ~、2014年2月
- (一社)土地改良建設協会、特別企画平成土地改良考、土地改良第305号(2019)
- 農業土木歴史研究会、大地への刻印(1988)
- 土地改良事業に係わる法制度の変遷とその概要、鳥取大学緒方英彦教授資料
- 農業農村の歴史、京都大学農業農村整備政策論資料